こんにちは。藤原です。
先日弊社スタッフで2023-24AW生地の買付が行われました。いつ見ても新作には心が躍るものです。そんな新作生地の一部が先行してお客様にお見せできる機会に恵まれました。詳しくは藤原ブログもしくは最新の公式LINE配信をご覧ください。
さて本日の表題は「ファッション偉人伝#4」と称しまして連載形式になりますこちらはファッション業界に多大な影響を与えたファッションの偉人に焦点を当てて皆様の明日の服選びの一助になる事を願っています。今回ご紹介するのはファッションだけでなく【デザイン】という概念に変化をもたらしたイノベーター【三宅一生】について深掘りしていきます。
三宅一生(1938-2022:WEBより引用)
1938年に広島県で生まれた三宅氏(以下敬称略)は多摩美術大学を卒業後、ヨーロッパやアメリカでファッションデザイナーとして修行を積み、1970年に東京にデザイン事務所を開きました。その後パリやニューヨークで作品を発表し、日本の伝統美と新素材との融合を図った斬新なデザインで世界的に注目を集めました。
1938年広島にて誕生した三宅氏は1945年には被爆を経験。イサムノグチが設計した広島市中心部に架かる2つの端を通じて”デザイン”というものに興味をもつようになり、高校を卒業すると東京の多摩美術大学に進学した。大学卒業後の1963年に「布と石の詩」と銘打ったファーストコレクションを発表してデザイナーとして国内デビュー。高田賢三がパリに渡った翌年となる1965年には渡仏し、現地にてジバンシィやギラロッシュといったブランドで経験を積むことになりました。
1968年に「五月革命」を体験した事でもっと幅広い人々に向けて服作りをしていこうという考え方が生まれ、それを機に1969年にはパリからニューヨークへと渡りジェフリー・ビーンのアシスタントとして活躍しました。
パリとニューヨークでの修行生活を終えた三宅氏は高度経済を経て様々な可能性を秘める地となった日本に帰国。同年には国内で「三宅デザイン事務所」を開設して日本での本格的な活動開始しました。1971年にはかつての修行の地であるニューヨークでコレクション発表を行い、海外でもデザイナーとして活動を始めました。
1973年秋冬シーズンにパリコレデビューを果たし、同時期にパリコレデビューした高田賢三や山本寛斎と共に1970年代からプレタポルテ分野の若手注目デザイナーとして活躍しました。1980年前後の時期になると世界屈指のスティリスト(プレタポルテのデザイナー)として扱われるようになり、香水など事業を多角化させる中でISSEY MIYAKEブランドを世界有数の高級ブランドへと育て上げました。
1988年にプリーツの仕事に着手するようになり1991年には「PLEATS PLEASE ISSEY MIYAKE」を立ち上げました。
「暮らしの中で生きてこそ、デザインの存在価値がある」という三宅一生の考えを実現させたラインでその機能美、汎用性、美しさから現代女性の日常に深く溶け込んでいます。
1990年代に入ってもますますの活躍を見せていましたが自身が還暦に近づいてきた中、人気絶頂のタイミングで「ISSEY MIYAKE」のメンズ部門のデザイナー職を若手の滝沢直己に譲り、この頃から若手へと世代交代を進め始めました。のち1999年メンズに続いてレディース部門のデザイナー職も滝沢直己に譲り、還暦を迎えて高田賢三と同じ年にデザイナーとして第一線から引退しました。
パリコレデザイナーとしてのキャリアを終え「ISSEY MIYAKE」に関しては総合的に監修する立場となった三宅氏は1998年よりスタートしたA-POCラインで特筆すべき技術とデザイン力を発表しました。コンピューター技術を駆使し一本の糸から一体型のチューブ状の生地を作り上げ、自分で自在にカットして服としてアレンジできるというプロジェクトは、瞬く間に世界から注目を浴びることになり、2006年にはニューヨーク近代美術館(MoMA)にパーマネントコレクションとして所蔵されていました。
2006年第22回「京都賞」で思想・芸術部門賞を受賞。
2007年「21_21 DESIGN SIGHT」 という施設を開設し、その空間のディレクターとしても活動するようになった。
2010年日本文化勲章を受勲している。
いかがでしたでしょうか。
近年の若手テーラーの着用が目立つ「イッセイミヤケ」について本人の半生と共に紹介いたしました。
向こう100年愛されるアイデアとして群を抜いていると言われるイッセイミヤケは日本のみならず多くのファンを世界中に抱えています。
服を見て何を感じることが出来るか、そんな一見の価値のあるブランドであると私は考えています。