こんにちは。藤原です。
一週間に1回か2回でしょうか。晴れ間が広がる日は自ずと外へ足を運びたくなりますね。急な雨や朝晩の寒暖差は激しいですから、お身体にをいたわって頂きながらファッションをお楽しみください。
さて本日の表題は「ファッション偉人伝#2」中でも本日は日本紳士服の祖と言っても過言ではない「石津謙介」について紐解いていき、皆様の気づきのヒントを一緒に探っていきます。
石津謙介(1911-2005)日本メンズファッション最高顧問
1911年10月、岡山県の紙問屋の次男として生まれた石津謙介氏(以下敬称略)は学生時代スポーツ万能で時代の先端を行く遊びに長けていました。明治大学進学後はオートバイクラブ、自動車部、航空部などを設立したほかローラースケートや乗馬などにも興じていました。
明治大学卒業後は実家である紙問屋を継ぎながらも趣味であるグラインダー制作・操縦が功を奏し日本軍航空兵の教官も務めていた。1939年には妻子共に中国・天津に移住し服飾関係の仕事に従事した。1941年太平洋戦争終戦後はアメリカ東海岸の名門「アイビーリーグ」出身者であるアメリカ兵の通訳を担当し、伝統を生かしたアイビーファッションに触れ魅力を学びました。
帰国後は現在のアパレル企業であるレナウン社に勤め、1951年独立。社名を「石津商店」とし1954年には「有限会社ヴァンヂャケット」に改組しブランド「VAN」を発表した。
石津氏が提案する「VAN」はブレザーとボタンダウンシャツをベースとした「アイビールック」として紹介し、当時の若者ファッションにセンセーショナルを巻き起こした。その影響で銀座では不良少年の印象として通称「みゆき族」がアイビールックで街を埋め尽くし社会現象になった。当時は1964年東京オリンピック前だった為、警察官がアイビールックの若者に徹底的な職務質問を行い浄化せざる負えないという異例の事態にまで発展した。
1975年以降はヴァンヂャケットの経営が急速に悪化。1978年には経営破綻おし、会社更生法を申請した後の記者会見で石津氏は「ファッションとは流れうつるもの。最近はひとりひとりの価値観が多様化してきているのに、それを商品化することができなかった」と謝罪の弁を述べた。
その後はフリーのデザイナーとして活躍する傍らで、衣食住のライフスタイルバランスの重要性を積極的に提唱した。
2005年東京都青梅市の病院で静かに息を引き取った。その際パジャマには一切着替えず、「イッセイミヤケ」の服を着たまま息を引き取ったと言われています。
いかがでしたでしょうか。
石津氏は日本の紳士服の世界において絶大な影響を与えています。著名な方で一例を申し上げるとデザイナー「三宅一生」「コシノジュンコ」、ユニクロ代表取締役「柳井正」など錚々たるメンツ。ファッションとは自由である。ただ大事にすべきものは何なのか。大事なことが石津氏を介して皆様に伝わっていると私は感じています。
更に気になる方は石津氏にフォーカスを当てた著「AMETORA」にて彼の半生とその後の影響について詳しく書かれていますのでお手に取ってみて下さい。
脱線したお話でした。